一日一枚の幸せを花ちゃんと


by hanamamann

2008年 09月 05日 ( 1 )

自分のこと

私が両親の元で生活したのは、12歳(小学校6年)まででした。
戦後まもなくの田舎に東京の音楽学校を出たヴァイオリンの先生が来られ、
音楽好きでSPを1000枚くらい持っていた父は、子供にヴァイオリンを習わせました。
上の姉が弾くヴァイオリンを聞いている私は上達が早かったのでしょう。
私は、文字通り「飴と鞭」によってヴァイオリンをやらされる毎日となりました。
そして、とうとう「プロにするならこんな田舎にいては駄目」と言う、東京から来た、
有名なヴァイオリニストの言葉で、父は私を東京に出す事を決めました。
丁度、中学を卒業し、高校へ行く下の姉が私より三ヶ月早く東京に出され、
他人の中で「私のヴァイオリンのため」の生活が始まりました。
今から50年ほど前のことです。今思っても無謀な事だったと父の考えを理解しかねます。
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東京へ出てからの生活は、姉妹二人他人様の家で肩身の狭い思いをして暮らしましたが、
私は「ヴァイオリンのため」ひたすら練習して、帰りたい思いを忘れようとしました。
姉はそれこそ妹について出されたのですから、苦労は大変だったと思います。
休みになるのを待ちかねて、夜行列車に乗って出雲に帰りました。
この頃は寝台車などなく、何時間も座ったままで中学生の私には怖さもあり、
苦行そのものでした。
この頃の事で今も鮮明に覚えていることがあります。
東京へ行く日、母が私に一つの風呂敷包みを渡し、「養父(やぶ)の叔母さんが
線路脇にいるから投げて」と言いました。
母の実家は山陰線の脇にあり、汽車が通る頃に出ているから・・・と。
親の言うことに逆らう事も、嫌だとも思わず引き受けました。
出雲からどのくらいかかるのか、島根県、鳥取県、兵庫県ですから。
いよいよ養父の駅が近くなり、4人掛けの席に座っている私は他の人に声を掛け
窓を開けさせてもらいました。身を乗り出すように見ていると、遠く豆粒のような人が
見えました。段々大きくなり叔母さんと分かった瞬間、思いっきり風呂敷包みを投げました。
あっという間に通り過ぎてしまい、その後どうなったかは覚えていませんが、
あんな事が中学生でよく出来たなぁ・・・と今でも時々思い出す出来事です。
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by hanamamann | 2008-09-05 23:15 | 音楽 | Comments(8)